僕が3歳くらいまで我が家でかなりのヘビーローテーションで流れていた音楽は、ベートーヴェンの交響曲第5番(「運命」)とウルトラセブンのテーマ曲である。
父が「運命」、僕が「セブン」のレコードをかけていた。今気づいたけど「5番」と「セブン(7)」だったわけだ。。。
世の中に共感してくれる人が居るのかわからないけど、セブンのレコードサイズの曲の2番と3番の間奏の8小節がマイナーキーに転調するんだけど、そこが「運命」の第二楽章に雰囲気が似ているのだ。「運命」を聴くといつもセブンの曲を思い出す。
当時2歳でウルトラ警備隊に妄想入隊していた僕は、セブンのソフビ人形で遊ぶ時、スピーカーから2番の歌の後にそのマイナーキーの悲しい感じの間奏が流れるとセブンが怪獣にやられてしまい、メジャーキーに戻った元気な3番が始まると復活して怪獣をやっつけるシナリオを作って遊んでいたという、メロディの長調と短調の違いを把握していた最優秀ウルトラ警備隊員だった。残念ながら地球防衛軍より表彰されるまえに除隊した。ウルトラセブン最終回と共にM78星雲へ帰らなければならなかったからである(大丈夫かオレ......)。
そして父のヘビロテのおかげで僕もかなりの「運命」好きになり、小中学生のころは第一楽章くらいは口ずさめた。そしてベートヴェンと共に「指揮者=カラヤン」と僕の中にインプットされた。
カラヤン、バーンスタイン、小沢征爾氏たちが偉大な指揮者と言われるのは、どういうところにあるのか僕には大人になってもまだ分からない。どういう指揮者が偉大なのか。 そこに追いつこうとしている指揮者と何が違うのか。。。 指揮者が違うと曲も違ってくるというのは分かって来た。素人が指揮棒を振ると演奏がメチャクチャになるのも見たし、指揮者によっては僕にとってまったく残念なアレンジになってる「運命」もあることを知った。
とにかく僕には指揮者といえばカラヤンなので、ついにカラヤン指揮の「運命」のDVDを買ってみた。
「鬼才、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督が華麗にして完璧な演出を魅せるカラヤンという芸術と人間に迫るクラシックシリーズ」ということだから、きっと映像的迫力もあるのだろう。近いうちに職場の65インチ大型ディスプレイ&サラウンドスピーカーで大音量で見てみようと思う。それまで開封しないでおこうと思う。
最近、絵を描く時にジャズを聴いててもしっくりいかないので、それ以来、クラシックを聴きながら描いてみている。
頭がいっぱいのとき、歌詞があると聴き入ったり口ずさんだりして邪魔になることもあるので、クラシックは絵を描くには心地よいかもしれない。